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クリスチャンになったわけ 藤井秀一

 わたしが最初に聖書を見たのは、中学生の時でした。二つ年下の妹がなにか楽しそうなところに行き、挿絵のついている聖書をもって帰ってきたのです。おそらく妹は友達に誘われて教会の子ども学校に行ったのでしょう。しかし、当時の私にとって聖書は、何の興味もなく、今後も読むことはない書物だと思っていました。

アップロードファイル 7-2.jpg 時は流れ、自衛隊の音楽隊に就職して2年たったある夜。寮生活をしていた私のところに母から電話がきます。今、家から飛び出して友人の家にいるというのです。母に会いに行くと、父に殴られ醜く顔が腫れあがった母がいました。母はもう家には戻らないといいます。それからしばらくの間、長男であった私は、父と母の間に板ばさみになり、聞きたくない言葉の数々を聞く羽目になり、そして二人は別れてしまいます。

 それまで、男女の愛とか人間愛を信じていた私でしたが、家族崩壊の現実をまえに、軽い人間不信に陥りました。それをきっかけに、心にぽっかり穴が開いたような状態になります。何をしても、むなしいのです。何のために生きているのか分からない日々でした。

アップロードファイル 7-3.jpg そんなある日、作家の三浦綾子のエッセーに出会います。クリスチャンである三浦夫妻の他愛ない日常の生活が綴ってあるエッセーを読んだとき、冷え切っていた心の中に何か暖かいものが流れ込む感覚を覚えました。それ以来三浦さんの本を読みあさり、やがて聖書も買って読むようになりました。


アップロードファイル 7-4.jpg 聖書を読むうち、イエスキリストの言葉が心に残るようになります。そして、その言葉によって照らされるようにして、私自身の心のなかの醜いところが明らかになってきます。


 当時、どうしても受け入れられない同僚がいました。いやでも一緒に仕事をしなければならない人でした。しかし、何ヶ月も挨拶一つせず、必要最小限の会話しかない状態でした。

 その人と顔を合わせるのは憂鬱でした。その人さえいなければいいのにと思いました。その人のあら捜しをしては心の中で責めていました。しかしそんな私を、今度はイエスキリストの言葉が責め始めたのです。キリストは言います。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」。嗚呼、なんという言葉でしょう。心が痛みました。


 しかし聖書から離れることはもはやできませんでした。心が聖書を読むことをどうしても欲するのです。そして、自分の中にある罪の心というものがわかってきて、そのわたしの罪の身代わりとして、キリストが十字架についたという意味が、わかってきました。

 もうキリストしかこんな私を救えないと、本気で思うようになりました。友人と酒を飲み酔いが回って人生を語りだすころになると、教会にも行っていないくせに、キリストのことを熱弁する人間になっていました。

 それでも、私は教会に行く気はありませんでした。聖書を読んで、自分さえ信じていればいいと思っていたからです。でもその考えは甘かった。私は、時折襲ってくるむなしい心に抗しきれず、すぐ罪の喜びの中に逃げ込んでしまう人間でした。もう自分は教会にいかなければだめになると思い、1991年の冬に教会に行きます。そして半年後に、説教の中で、聖書のザアカイの話を聞きました。その時、もういい加減、自分のプライドという、木から下りてきていいよ、と神様にいわれた気がして、洗礼(バプテスマ)を受けました。

アップロードファイル 7-1.jpgそして、イエスキリストを信じる日々の中で、心の中に新しい希望が、生きる喜びがあたえられたのです。クリスチャンの素晴らしい妻が与えられ、かわいい子どもたちも与えられました。

 神様から愛する力を頂いて、愛する家族とほんとうに祝福された日々を過ごしています。


アップロードファイル 7-5.jpg聖書からザアカイのお話
 「そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」(ルカによる福音書19章から)

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